輝く鬼は奇しく笑う

妖しく怪しく奇しく

マスを書かない

 

気が向いたから書くよ:-) 

実はブログで何かを書くときに自分なりのルールがあるから今日はその話。

 

ルールは大きくわけて3つ。

その一 ネガティブな記事を書かないこと。

その二 わかりやすい文章にすること。

その三 綺麗な言葉を使うこと。

 

その一について

読んでいて嫌な気分になるような文章を誰が好んで読むだろう。どうせならおもしろいことを考え、それを文章にしたいものである。ネガティブなことを書く時間も、それを読む時間も無駄である。ネガティブなことを考えることは悪いことではないし、僕にもそういうときはあるけれど、それを周りに発信するべきではないはずだ。

 

その二について

読んでいて何を伝えたいのかわからない文章など誰が好んで読むだろう。僕は言葉を使って何かを表現するとき、相手にちゃんと 伝わること が重要だと思っている。これについては「相手に伝わらなくてもいいから自分の考えを言葉で表現することのほうが重要だ」「読み手によって様々な解釈ができるような奥の深い表現をすることのほうが重要だ」など、いろんな意見があると思うけれど、僕は伝えることが最も重要だと思っている。

 

その三について

汚い言葉で作られた文章など誰が好んで読むだろう。別に小説や詩を書いているわけじゃないからそこまで意識してないけれど、綺麗というかなんというか、やわらかい感じの文章にしようと心がけている。だからできるだけ日本語、特にひらがなを使うようにしている。ただ、ひらがなを使うと読みにくくなったり、わかりにくくなったりもするから外来語や漢字とのバランスも考えている。一応。

 

このルールの共通しているところは読み手を意識しているところだ。ブログにはいろんな種類、使い方があると思うけれど、僕のブログは自分の考えを誰かに伝えるためのブログだ。ブログを書くにあたって大切なことは、 読み手を意識すること だと僕は思う。読み手を意識せず、自己満足のためにブログを書くのはただのマスターベーションだ。 

 

あ、あと です。ます。を書かないことネ。

 

 

じぶん買って

 

お久しぶりです。

最後の更新から2ヶ月たったのでなんか書こうと思う。

 

12月と1月はいろいろ忙しかったからブログに何か書こうとすることもなく、考え事をしている時間も全然なかったように思う。何かについて考え事をしないと、ブログに書くネタが思い浮かばないし、そもそもブログに対するモチベーションなんて高く保てないから、「ブログ読みました面白かったです」って言ってくれるロボットがほしいところ。

 

最近目上の人に「この世で一番の悪は何かわかるか?」と言われた。僕はこの質問をされたとき、目上の人が僕に対して何を言いたいのかがだいたいわかった。僕は適当に「いや、わかんないっす」みたいなことを言ったと思う。目上の人は「それはな、無関心なことだよ」と言い、続けて「まぁお前にもいつかわかるときがくるよ」と言っていた。改めて会話を文章にすると、だいぶ腹立つこと言われたなと思うわ(怒)

目上の人が この世で一番の悪は何か という質問を僕に対して投げかけてきたのは、この世で一番の悪が何かを教えるためではなく、僕に対して お前は無関心だが、それは悪いことだ と伝えるためだ。僕は確かに周りの人間に対して無関心なことが多いし、誰かに依存することもほとんどない。周りに合わせることも少しはあるけれど、基本的には自分の感情に従って行動しつつ、気が合ったときだけ誰かと一緒に行動するっていう感じが多い。自分の思い通りに行動することが周りの人より多いのだ。マリオネットじゃだめでしょう。のときも書いたように、周りと関わりながらも孤立しているような状態でいるのを良しとするのが僕の生き方だし、それが僕の個性でもある。本当は、僕の生き方は変えずに周りにも気をつかって興味があるように接することが一番良いんだろうけど、それはすごく疲れるからやりたくないのだ。

 

僕は自分の思った通りに生きている。気が合った人と気が合ったときに気が合うことをする。そんな感じでいいと思う。無理に周りに合わせていくのは疲れるし、なにより自分を見失ってしまう。

 

自分勝手に生きて、いつか自分勝手な僕を許してくれる人に出会って、許してくれた人の自分勝手を僕も許して、手を繋いでおんなじ道を、一緒に歩いていけたらいいなぁ。

 

睡眠愚スクール

 

よく寝た。授業をサボってよく寝た。

最高だった。幸せだった。

二度寝をした。寝るのに疲れてまた寝た。

体力が回復した。ストレスはなくなった。

一日を無駄にした。罪悪感に襲われた。

一日中充電してた。しがらみから解放された。

成績は下がった。他人からあいつはサボったと思われた。

やる気は上がった。自分をいたわった。

よく寝た。たくさん寝た。

 

 

失うものもあるけれど、得たものだってあるでしょう。

 

 

こんなことができるのもあと数年なんだなぁ。

タイトルをトル

 

寒いです。お久しぶりです。

最近いろいろ忙しかった。僕あんまり集中力ないから課題やるときとか、レポートソシャゲレポートソシャゲソシャゲみたいな、今日結局ソシャゲのほうがやってたじゃん!っていうのが多い。だから自分の集中力の無さを考慮して計画をたてながら課題をやってた。まぁテストも課題も一段落ついたからまた定期的にブログを書こうと思う。

ここ1ヶ月くらい意外といろんなことがあった。スマホが壊れて自分がどれだけスマホに依存してるのかに気づいたり、人として一番惹かれる友達の誕生日におめでとうってLINEしたり、ゲームをしながら友達と話したり。たいしたことではないけれど、だいじなことではあるんだよ。

 

最近はタイトルを決めてからブログを書くようにした。マリオネットじゃだめでしょうの内容が一番書きたかったから、それを書いちゃった後「え、何書こう」っていう状態が続いている。自己肯定することの大切さとか、ファイトクラブのこととか書きたいことはあるけど、なかなかまとまらない。書くことがあんまりないから、タイトルから決めて、それについて考えて書くようにした。ミカンとボクと時々オフトンとかね、迷走しすぎたけどあぁいうくだらないことを考えるのも割りと好き。でもそのやり方は好きじゃないから、ほんとはあんまりやりたくない。例えば小学生に木を描きましょうと言って描かせた木よりも、なんでも自由に書いていいよと言って適当に描いた絵が木に見えるほうが魅力的だと思うから。何かを作るとき、それを作ろうとしてそれになるのと、作ったものがそれになるのは似ているようで全然違う。

 

枠組みを最初に作ると、どうしてもその中でしか動けないから窮屈なんだ。

 

人生はホークラックス

 

有名な漫画の偉大な藪医者は人が死ぬのは人に忘れられたときだと言っていた。

 

最近二十歳を前にして、僕の人生を振り返っていた。あんまり深く考えていないけど、ほんの少しだけ人生について考えた。人生を語るには、僕はまだ若すぎる。でも二十年ほどしか生きていない僕が一つ答えを出すのも、それはそれでおもしろいなぁと思った。きっと十年後、二十年後と人生は◯◯だに当てはまる言葉は変わっていくだろう。二十歳の僕が出した答えが 人生はホークラックス である。

 

ホークラックスを知っている人は多いと思うけれど、知らない人もいるだろうから一応説明。ホークラックス(別名分霊箱)とは、ハリーポッターに出てくるもので、他者を殺すことで自分の魂を引き裂き、その魂を物体(この物体が分霊箱)に納めることで肉体的に死んでも、完全に死んだことにはならないようにするもの。作中ではヴォルデモートが複数の分霊箱を作っていて、ハリーたちはヴォルデモートの分霊箱を壊し、ヴォルデモートを滅ぼそうと、ヴォルデモートたちは分霊箱が壊される前に、ハリーを殺そうと、ハリーポッターvsヴォルデモートにおいて勝負の鍵を握る重要なものだったね。こうして書くと、人生を分霊箱に例えるのはいかがなものかと思えてくるけれど、大事な部分は 自分という存在を何かに納める というところだ。

僕は人間一人じゃ生きていけないと思っているし、多くの人がそう思っているだろう。生きるためには人との繋がりが絶対に必要だ。どんな人にだってかけがえのない人がいるし、どんな人でも誰かにとってはかけがえのない存在だ。かけがえのない存在になることはすごく意味のあることだと思うし、誰かのかけがえのない存在になるために生きていくことは人生を捧げる価値があると僕は思う。かけがえのない存在には、その人と共に過ごしたすごく特別な記憶があるはずだ。この記憶が分霊箱でいうところの魂で、この記憶を共有した人が自分にとっての分霊箱だ。つまり僕のいうホークラックスとは、親しい人と共に過ごし、特別な思い出を作っていくことで、お互いがお互いにとってかけがえのない存在になるということだ。誰かの記憶や心の中に、深く、大きく自分という存在を残していくことが人生だ。

 

僕は人生の中で、どれだけ誰かの分霊箱になれるだろうか。

 

ミカンとボクと、時々、オフトン

 

お前何言ってんだシリーズその1

先に言っておくが、タイトルで釣っただけだ。

 

 冬と言えばみかんとこたつをイメージする人もいるかもしれないが、僕はそうではない。いや、正確にはイメージはできるが、こたつが僕にとって身近なものではないと言うべきか。というのも、僕の実家ではこたつは使わなかった。それにこたつがあったとしてもこたつがあるのはリビングだ。僕は家族とあんまり仲が良くないから、家にいるときは基本自分の部屋にいる。そうなると自分の部屋で孤独や寒さと戦わなければならない。

 自分の部屋で効率的に暖を取る方法は二つある。ストーブの前に陣取るか、ベッドと掛け布団の間に陣取るか、である。僕の答えは常に決まっていた。ベッドと掛け布団の間である。ストーブの前も捨てがたいものがあるけれど、ストーブの前で暖を取るのに調度良い温度を保つのは意外と難しい。近すぎれば暑くなり、遠すぎれば寒くなる。鬱陶しさと優しさを兼ね備えた親に似ている。その点ベッドと掛け布団の間は簡単なものだ。ベッドに入った瞬間こそ驚くほどに冷たいが、その後すぐに暖かくなってくれる。ツンデレだ。さすがメインヒロインと言わざるを得ない。

 ベッドに入ることで一つ問題が発生する。そう、みかんである。ベッドに入ってしまった以上みかんは食べられない。なぜならみかんを食べるには皮を剥かなければならず、剥いた皮の欠片が自分の寝床を汚してしまうからだ。そして剥いた皮を置く場所も同時に必要となる。ましてや僕はみかんのスジを丁寧に取る派だ。そんな僕がベッドでみかんを食べてしまえば、ベッドが汚れる危険性は更に高まる。(ベッドの上で皮を剥くとか、スジを丁寧にとか一体なんの話をしていたのか忘れてしまいそうだ。)話を戻そう、みかんの皮を置く場所を部屋の床にすれば万事解決するだろ と思う人もいるかもしれないが、それなら最初からストーブの前に陣取り、みかんの皮を床に置いてみかんを食べれば良い。それにベッドに入りながら床にみかんの皮を置いてみかんを食べるという行為はストーブの前にも気があるような素振りである。そんな 昔付き合っていた人への気持ちを残しつつ新たなパートナーと付き合う みたいなことは僕の美学が許してはくれない。ベッドと掛け布団をメインヒロインとしている以上、こちらを選んだ以上は裏切ることはできない。どうにかしてベッドの上でみかんを食べる方法を見つけ出さなければならない。もはや暖を取ることよりも、ベッドの上でみかんを食べることこそが目的なのだ。

 それから僕はどんな方法があるかを模索し続けた。冷蔵庫から取り出したあの冷たかったみかんは、もうとっくにぬるくなっていた。様々な選択肢は見つかりはしたものの、解決策は見つからなかった。結局ベッドでみかんを食べるためには自分の寝床を汚すしかなかった。僕は無力感に襲われながらみかんの皮を剥き、剥いた皮をベッドの上へと置いた。みかんのスジを取り、スジを皮の上へ置いていく。ベッドと掛け布団を選んだのにもかかわらず、結局ベッドを汚してしまう、裏切ってしまっていることを実感しながら。

 僕は今、ベッドと掛け布団の間に陣を取り、暖を取り、みかんのスジを取り、スジを取り終えたみかんの一粒を手に取っている。僕は一体、どの選択肢を取るべきだったのだろう。

 

マリオネットじゃだめでしょう。

 

ブログを始めてから、暇さえあれば 次は何をテーマに書こうかなぁ なんてことを考えている。ほんの少し、ブログに翻弄されている僕がいる。

僕は誰にも何にも翻弄されたくない、依存したくない。まぁ誰にも何にもってのは大袈裟だけど。僕という存在がいろんなものと関わり合いながらも孤立しているような状態が一番良いと思っている。例えるならスイスがわかりやすいだろうか。ヨーロッパの中心にあって、様々な国際機関の本部があるけど、EUには加盟していない みたいな。僕は独りでいることは良いことだと思っている。独りでいることは自分をフラットな状態にしてくれる。物事の本質を見極めようとするうえでフラットな状態になるのは必要なことだ。自分について語るのが恥ずかしくなってきたからこの辺でやめるよ:-)

 

※caution

ここから先は僕の考え、憶測がべらべら述べられているよ。韓国めっちゃ嫌いな人は見ないほうがいいかもよ。でもちゃんと見てほしいよ。

あと、僕は韓国好きでも嫌いでもないよ。

 

 

 

 

物事の本質を見極めようとする力が大切だと、twitterで何度かツイートしたが、それについて書いていく。僕たちは自分が所属する集団に対して、肯定的な評価をしている場合が多い。代表的な例は愛国心だ。日本人という集団に属しているから日本という国を肯定的に評価している ということだ。性別、年齢、学校、サークル、大きい小さいに関わらずどんな集団でも同じだ。自分が集団に所属していると、その集団を客観的に評価することが難しくなり、その結果本来の姿、物事の本質が見えなくなる。

 

次は逆のことについて考える。自分の所属していない集団についてだ。この前大学の授業で人間の脳は わからないこと、曖昧なことを避けるようにできている と聞いた。それを聞いて僕はなるほどなぁと思った。

僕たちは自分の所属している集団を肯定的に評価するのとは逆に、自分が所属していない集団について否定的評価をすることがある。これは自分の所属していない集団は わからない存在 であるため、否定的評価をするんじゃないかと僕は思う。なんかレポートみたいね、ははは。反韓を例にして考えてみる。日本に住んでいて、韓国が嫌いだと言う人の中で、韓国という国を熟知している人はどれくらいいるだろうか。恐らくほとんどいないだろう。多分。そのはず。ほとんどの人が、韓国という国の本来の姿を知らないまま、批判をしているんじゃないかと思う。つまり韓国について知らないから、批判をしているという風に考えることができる。

 

そんなことを言っても、「韓国についてだと?ニュースや新聞を見てるから知ってるわボケ」って言う人もいるだろう。でもメディアで報道されている韓国が本来の姿だと言えるだろうか。僕は違う可能性もあると思う。あくまで可能性だよ。日本に住んでいる人が、情報を受けとるときに目にするのは日本のメディアだ。僕たちが受けとる情報はすべて 日本のメディア を通して僕たちの元に届いている。日本のメディアが日本の都合に良いように、韓国の情報を歪めている可能性がないとは言い切れないはずだ。だからこそ、物事の本質を見極めようとする必要があると僕は思う。ただ伝わってきた情報を思考停止で鵜呑みにしてしまうのは良くないことだ。

本来の姿を知らないことは否定的に捉える危険性があるし、知っていると錯覚することはすごく危ないことだ。大切なのは知ろうとすること、物事の本質を見極めようとすることだ。誰かから伝わってきた情報に踊らされるなら、それは人間じゃなくてただの操り人形だ。ちゃんと自分で調べて、自分の考えを持つべきだ。

 

人間らしくあるために、考えるのをやめちゃいけないよ

 

P.S.

今年韓国に行ったんだけど、韓国のキムチくそ不味かった。

友達の言う通りだった。もう二度と買わない。。。